2016年 10月 24日
中山道6回目 NO.2-2 |
★赤坂⇒美江寺
杭瀬川をこえるところから午後の歩きは始まった。
赤坂大橋を渡ると美濃路追分で、大垣への道が右に分かれている。左手土手に立て札がある。行ってみると、わが国最大のゲンジボタルが生息しているとある。大垣市の天然記念物ということだ。
500mほど先に「史跡中山道一里塚跡]と彫られた標石がある。池尻の一里塚だ。単調な道をひたすら歩く。空き地に咲く鮮やかな百日草やそこにやってくる蝶が単調さを慰めてくれる。
東赤坂駅近くの養老線を超えるとやがて何度も角を曲りながら進むようになる。「中山道七曲がり半」というらしく、路傍にその標識もある。京に向かって、ここから七曲がりがあることを告げる標識の様だ。 道がようやくまっすぐになった頃、左手に聖観音菩薩像が立っている。ここからも北に向かって谷汲山道が伸びているのだ。約4里あるらしい。中山道はまっすぐ前進。(画像では右へ) なおも単調な道を進む。川岸に桜並木のある細い川、東の川を渡り道なりに進む。
突き当たりで右折すると平野井川の土手道に差し掛かる。その辺りは大垣輪中とよばれる堤で河川の氾濫から守られている。
墨俣追分道標
堤防上を進むと土手の草むら、見上げる位置に道標が立っている。[左木曽路、右すのまた宿道」とある。先のY字路を左にとる。 新橋で川を渡る、土手に座って少し休憩。
小簾紅園
モミジが美しい小さな園地が和宮の遺徳をしのんで呂久渡船場跡に造られている。
今は豊後川とよばれる旧呂久川(旧揖斐川)に当時の渡しがあり、和宮も御座船で渡ったという。その際、対岸の馬淵家の庭の紅葉を愛で、一枝所望して、[落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ]と詠われた。とあり、園内には和宮の歌碑が建立されている。落ちていく身・・・・という言葉に当時の宮の思いが切々と伝わってくる。
揖斐川(大正14年の河川改修で変更された)
揖斐川は冠山に源を発し伊勢湾へと注ぎこむ。往時は呂久川と言われた。遠くに連なるどの山が源なんだろうと思いながら鷺田橋から上流を見る。
揖斐川を渡ると、いよいよ美江寺へと田園道を横切って進むことになる。今はだだっ広いだけの道だが、往時は江戸時代初期に植栽されたという松並木があったという。道は間違ってないだろうかと少し不安になる頃、美江寺宿と記された電柱標識を確認、さらに、道の解説版にも出会えた。 マンホールのふたデザインも変わり、巣南中学校も街道右に。 川沿いを行くとやがて、自然居士作の阿弥陀如来像千体が安置されているという千躰寺の前に立つ。小さな寺だったが中には入れなかった。
美江寺の街道筋。石組と緑の美しい生垣が目をひく。
犀川
河岸周辺には柿が沢山植えられている。水面が岸に迫るほどの豊かな水量だが、昔はよく氾濫したというのがわかるような川の様子だ。
野に立つ千手観音堂には祠の中いっぱいに大きな千手観音が祀られている。美江寺という地名のきっかけとなった千手観音への信仰が厚いのだろう。 墨俣道道標があり右へ進むと墨俣一夜城への道。中山道は左(北方向)へ進む。
美江寺本陣跡
ひっそりした雰囲気は今も当時も変わらないらしい。
宿は1637年に江戸から56番目の宿として開設されたが、本陣1、脇本陣なし、旅篭11という小さな存在だったようだ。本陣の建物は濃尾地震で倒壊。後、建て替えられたがそれも平成になって取り壊され、今は旧本陣の面影はない。
道はやがて東へ延びる美江寺観世音道に突き当たる。正面に美江神社。
左角の虫籠窓のある民家は庄屋和田家。(旧美江寺城主和田氏末裔)
建て替えられたのか改修されてのか美しい外観を保っている。
美江神社
この神社の裏あたり観音堂があった。河川の氾濫に悩まされたが十一面観音に祈願すると[美しい江]となったというのが地名の由来。その観音は寺が火災で焼失した際に斎藤道三によって岐阜に移され、その後、美江寺は廃寺となったとか。
今は別の観音が祀られているそうだ。
境内には宿の碑が立ち、高札場が復元されている。
中山道は神社前の道を東へと進む。
造り酒屋布屋
元禄9年(1696年)創業)。濃尾地震(1891年)で唯一残った商家で今も営業している。
神社から500m行くと樽見鉄道の美江寺踏切があり、このあたりが宿の江戸(東)口。
すぐそばの美江寺駅に着いたのが、15時40分。この日はこれで切り上げ、宿のある岐阜へ向かった。
杭瀬川をこえるところから午後の歩きは始まった。
赤坂大橋を渡ると美濃路追分で、大垣への道が右に分かれている。左手土手に立て札がある。行ってみると、わが国最大のゲンジボタルが生息しているとある。大垣市の天然記念物ということだ。
東赤坂駅近くの養老線を超えるとやがて何度も角を曲りながら進むようになる。「中山道七曲がり半」というらしく、路傍にその標識もある。京に向かって、ここから七曲がりがあることを告げる標識の様だ。
突き当たりで右折すると平野井川の土手道に差し掛かる。その辺りは大垣輪中とよばれる堤で河川の氾濫から守られている。
墨俣追分道標
堤防上を進むと土手の草むら、見上げる位置に道標が立っている。[左木曽路、右すのまた宿道」とある。先のY字路を左にとる。
小簾紅園
モミジが美しい小さな園地が和宮の遺徳をしのんで呂久渡船場跡に造られている。
今は豊後川とよばれる旧呂久川(旧揖斐川)に当時の渡しがあり、和宮も御座船で渡ったという。その際、対岸の馬淵家の庭の紅葉を愛で、一枝所望して、[落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ]と詠われた。とあり、園内には和宮の歌碑が建立されている。落ちていく身・・・・という言葉に当時の宮の思いが切々と伝わってくる。
揖斐川(大正14年の河川改修で変更された)
揖斐川は冠山に源を発し伊勢湾へと注ぎこむ。往時は呂久川と言われた。遠くに連なるどの山が源なんだろうと思いながら鷺田橋から上流を見る。
揖斐川を渡ると、いよいよ美江寺へと田園道を横切って進むことになる。今はだだっ広いだけの道だが、往時は江戸時代初期に植栽されたという松並木があったという。道は間違ってないだろうかと少し不安になる頃、美江寺宿と記された電柱標識を確認、さらに、道の解説版にも出会えた。
美江寺の街道筋。石組と緑の美しい生垣が目をひく。
犀川
河岸周辺には柿が沢山植えられている。水面が岸に迫るほどの豊かな水量だが、昔はよく氾濫したというのがわかるような川の様子だ。
野に立つ千手観音堂には祠の中いっぱいに大きな千手観音が祀られている。美江寺という地名のきっかけとなった千手観音への信仰が厚いのだろう。
美江寺本陣跡
ひっそりした雰囲気は今も当時も変わらないらしい。
宿は1637年に江戸から56番目の宿として開設されたが、本陣1、脇本陣なし、旅篭11という小さな存在だったようだ。本陣の建物は濃尾地震で倒壊。後、建て替えられたがそれも平成になって取り壊され、今は旧本陣の面影はない。
左角の虫籠窓のある民家は庄屋和田家。(旧美江寺城主和田氏末裔)
建て替えられたのか改修されてのか美しい外観を保っている。
美江神社
この神社の裏あたり観音堂があった。河川の氾濫に悩まされたが十一面観音に祈願すると[美しい江]となったというのが地名の由来。その観音は寺が火災で焼失した際に斎藤道三によって岐阜に移され、その後、美江寺は廃寺となったとか。
今は別の観音が祀られているそうだ。
境内には宿の碑が立ち、高札場が復元されている。
造り酒屋布屋
元禄9年(1696年)創業)。濃尾地震(1891年)で唯一残った商家で今も営業している。
神社から500m行くと樽見鉄道の美江寺踏切があり、このあたりが宿の江戸(東)口。
すぐそばの美江寺駅に着いたのが、15時40分。この日はこれで切り上げ、宿のある岐阜へ向かった。
by blue-robin2
| 2016-10-24 18:35
| 中山道
|
Comments(2)
Commented
by
timata-sn at 2016-10-24 19:27
blue-robin2さん こんばんは
今日は久しぶりに良いお天気に成りました。
最初の杭瀬川にはゲンジボタルが生息して居るんですね。
水質も良いのでしょうね。
皇女和宮が公武合体で江戸へ下られるのは中山道で休憩宿泊の地には
残された句が有るんですね。
美江寺辺りは川の氾濫を繰り返した様ですね。
午後はかなりの距離を歩かれたようですね。
お泊りは岐阜だったのですね、お疲れ様でした!!
今日は久しぶりに良いお天気に成りました。
最初の杭瀬川にはゲンジボタルが生息して居るんですね。
水質も良いのでしょうね。
皇女和宮が公武合体で江戸へ下られるのは中山道で休憩宿泊の地には
残された句が有るんですね。
美江寺辺りは川の氾濫を繰り返した様ですね。
午後はかなりの距離を歩かれたようですね。
お泊りは岐阜だったのですね、お疲れ様でした!!
Commented
by
nonkonogoro at 2016-10-25 17:44
この辺りは知らない地名が続きますが
和宮さまも この道を通って行かれたのですね。
どんな想いで 江戸へと下って行かれたのでしょうねえ。
和宮さまも この道を通って行かれたのですね。
どんな想いで 江戸へと下って行かれたのでしょうねえ。