2016年 10月 20日
中山道6回目 NO.1 |
一月から4月にかけて歩いた中山道は関ヶ原に至って、近江路から美濃路へ。
駅に着いたのは10時過ぎ、せっかく関ヶ原に来たのだからと午前中は歴史民族資料館と徳川家康の最後陣地などを見て回った。資料館では合戦時の東西両軍の陣形と戦の流れを電光で示した大型ジオラマで紹介。戦の模様が詳しくわかってなかなか見ごたえがあった。ちょうど翌15,16日には関ヶ原合戦祭りが催され、武将たちの行軍ルートをガイドの案内で回るといったイベントもあるらしく、かなり心は動いたが、、、
本来の目的「中山道歩き旅」へ。
この日の予定は、ちょっと物足りない距離ではあるが垂井までののんびり歩き。
★関ヶ原宿⇒垂井宿
関が原宿とはいっても、駅近くの相川脇本陣跡に門が残る程度で
往時をしのぶものはほとんどない。その先、500メートル進んだところにあったであろう一里塚さえ残っていない状態だ。街道から少し脇にそれたR21沿いに徳川家康最初陣跡があるというので行ってみる。 その小高い丘は桃配山と呼ばれる。壬申の乱の際に大海人皇子がここに布陣、兵士に桃を配って勝利をおさめたという故事にならって、家康が最初の布陣を行ったということだ。30段程の草むした石段を上りその意外と狭い空間から関ヶ原のほうを眺めてみた。いまでは道路沿いの木々や建物に邪魔されさして見通しはよくない。
街道に戻ると、松並木にさしかかる。美濃路ではここにしかないという見事な並木だ。
この地で亡くなったという旅の修行僧をお祀りした六部地蔵の祠なども立っているが、何より目を引くのは合戦武将たちの幟の多さだった。100mおきにあっただろうか。ちなみにこのあたりには山内一豊が布陣していたようだ。
松は樹齢300年と言われる大木ぞろい。近くを東海道線が走っている。 野上集落に入ると旅人に親しまれたという「野上の七つ井戸」が復元されている。 その奥、線路沿いに「しゃもじ塚」という変わった名の塚があるというので行ってみた。平忠常の墓で、1031年に起こした乱でとらえられ護送される際、里人が出した食物をしゃもじごと口に入れ息絶えたという言い伝えがあるらしい。崩れかかった小さな墓石だがやはり里人が守り通したんだろうか・・・。 街道風景 国道21号線を横断して間もなくいくと、・・・・・
垂井の一里塚 江戸、日本橋より112里目で、残っているのは南塚。地元の方の説明によると東京都板橋区志村にある一里塚とともに国指定の貴重な一里塚なんだとか。その隣には関ヶ原山中にあったという芭蕉ゆかりの秋風庵を移築したという日守の茶屋が建っていた。昭和初期まで休み所として、句詠の場所として大いに利用されていたそうだ。 ここへきて道路に埋め込まれたマンホールのデザインが変わっていることに気が付く。鯉のぼりがデザインされている。垂井を流れる相川で毎年行われるという鯉(のぼり)の遊泳にちなんでいるのだろう。
西見付跡(京口)
広重の垂井宿の版画は、ここから西方向を見たところが写実的に描かれている。
本龍寺
芭蕉が冬ごもりをした寺として有名で境内には句碑が建っていて、芭蕉翁木造も安置されているようだ。・・・山門は金岩脇本陣から移築されたものらしい。
油屋卯吉家跡
1817年ごろ築の建物。油屋を営み明治以降は小林家の旅宿亀屋となったとの説明書き。 街道沿いにはかつての商売を記した札がかかった旧家も数多くあり往時をしのばせていた。この建物は蔵だろうか?壁面は鎧張りというらしい。
南宮大社大鳥居
三代将軍家光が再興したという南宮山の麓(駅の南口から20分)にある美濃の国一宮。
垂井の泉・・・・清んだ美しい水だ。すでに枯れているようではあるが池の上方に大きな欅があった。説明板によるとその根元から湧きだしており、この泉が垂井という地名の由来となったようだ。
本陣跡 1777年築の旅篭、亀丸屋。200年以上続く旅篭で今も旅館を営む。二階の連子格子窓などは当時のままだそうだ。 東見付
宿の江戸口。
この前方に相川が見えたが、これから先は明日ということで、駅に近いこの地で本日は切り上げた。
駅までの住宅地の中に美濃和紙発祥の地[紙屋塚]がひっそりと建っていた。
15時30分~~ホテルのある大垣へ
駅に着いたのは10時過ぎ、せっかく関ヶ原に来たのだからと午前中は歴史民族資料館と徳川家康の最後陣地などを見て回った。資料館では合戦時の東西両軍の陣形と戦の流れを電光で示した大型ジオラマで紹介。戦の模様が詳しくわかってなかなか見ごたえがあった。ちょうど翌15,16日には関ヶ原合戦祭りが催され、武将たちの行軍ルートをガイドの案内で回るといったイベントもあるらしく、かなり心は動いたが、、、
本来の目的「中山道歩き旅」へ。
この日の予定は、ちょっと物足りない距離ではあるが垂井までののんびり歩き。
★関ヶ原宿⇒垂井宿
関が原宿とはいっても、駅近くの相川脇本陣跡に門が残る程度で
往時をしのぶものはほとんどない。その先、500メートル進んだところにあったであろう一里塚さえ残っていない状態だ。街道から少し脇にそれたR21沿いに徳川家康最初陣跡があるというので行ってみる。
街道に戻ると、松並木にさしかかる。美濃路ではここにしかないという見事な並木だ。
この地で亡くなったという旅の修行僧をお祀りした六部地蔵の祠なども立っているが、何より目を引くのは合戦武将たちの幟の多さだった。100mおきにあっただろうか。ちなみにこのあたりには山内一豊が布陣していたようだ。
垂井の一里塚
西見付跡(京口)
広重の垂井宿の版画は、ここから西方向を見たところが写実的に描かれている。
本龍寺
芭蕉が冬ごもりをした寺として有名で境内には句碑が建っていて、芭蕉翁木造も安置されているようだ。・・・山門は金岩脇本陣から移築されたものらしい。
油屋卯吉家跡
1817年ごろ築の建物。油屋を営み明治以降は小林家の旅宿亀屋となったとの説明書き。
南宮大社大鳥居
三代将軍家光が再興したという南宮山の麓(駅の南口から20分)にある美濃の国一宮。
垂井の泉・・・・清んだ美しい水だ。すでに枯れているようではあるが池の上方に大きな欅があった。説明板によるとその根元から湧きだしており、この泉が垂井という地名の由来となったようだ。
本陣跡
宿の江戸口。
この前方に相川が見えたが、これから先は明日ということで、駅に近いこの地で本日は切り上げた。
駅までの住宅地の中に美濃和紙発祥の地[紙屋塚]がひっそりと建っていた。
15時30分~~ホテルのある大垣へ
by blue-robin2
| 2016-10-20 20:38
| 中山道
|
Comments(10)
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nonkonogoro at 2016-10-21 18:48
関が原の辺りと電車で通ると
たしか 丘の中腹に 看板がありますよね~
垂井宿には古い家屋が まだいくつも残されているのですね。
亀丸屋さんの2階は 1階に較べると
とても高さが短いですね~
中はどんな風になっているのかなあ
今でも宿泊できるなんて すごいですね。
一里塚
こじんまり こんもりしていて 可愛い姿ですね。
これは お墓ではないのですよね~
たしか 丘の中腹に 看板がありますよね~
垂井宿には古い家屋が まだいくつも残されているのですね。
亀丸屋さんの2階は 1階に較べると
とても高さが短いですね~
中はどんな風になっているのかなあ
今でも宿泊できるなんて すごいですね。
一里塚
こじんまり こんもりしていて 可愛い姿ですね。
これは お墓ではないのですよね~
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timata-sn at 2016-10-21 20:43
blue-robin2さん こんばんは
今日は薄曇りのお天気が続きました、夜に成って冷えだしましたよ。
垂井宿古い家屋も残って居るんですね。
今も旅館を続けて居られるとか凄いですね!!
寂れた感じの旅館は往時のままなんでしょうね。
関ヶ原の合戦図を観られたのですね。
石田方の羽を広げたような、鶴翼の陣は今も
評判に成って居ますが、裏切りや本気で戦う意思のない
陣でもろくも敗戦し、その心痛は察して余りあるものですね。
今日は薄曇りのお天気が続きました、夜に成って冷えだしましたよ。
垂井宿古い家屋も残って居るんですね。
今も旅館を続けて居られるとか凄いですね!!
寂れた感じの旅館は往時のままなんでしょうね。
関ヶ原の合戦図を観られたのですね。
石田方の羽を広げたような、鶴翼の陣は今も
評判に成って居ますが、裏切りや本気で戦う意思のない
陣でもろくも敗戦し、その心痛は察して余りあるものですね。
ご一緒に歩かせていただきました (#^^#) パソの中で \(^o^)/ いいな~ 歴史の中に入って行かれて!
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blue-robin2 at 2016-10-21 23:17
nonさん こんばんは
関ヶ原の傍を通ると確かに看板ありますよね。各武将が布陣したところには紋章を染め抜いた幟もたくさん立っていました。
街道沿いだけでしょうが結構古い家屋がありました。
亀丸屋さんは2年くらい前までは確かに営業されていたようですが女将が80を超えられ、後継者もおられないようで、多分今は素泊まりだけになってるかも知れません。
一里塚は歩く旅人の目安として日本橋から京に至るまで一里ごとに道の両側に盛り土をしてたいていは榎を植えてあったようです。木陰が旅人の休憩所ともなったのだと思います。中山道は東海道と草津で合流するので、草津まで129里。今ではほとんどが一里塚跡という石碑があるのみで、それすらないところもあります。垂井のようにすがたをとどめていたとしても道の片側だけがほとんどじゃないかと思います。
関ヶ原の傍を通ると確かに看板ありますよね。各武将が布陣したところには紋章を染め抜いた幟もたくさん立っていました。
街道沿いだけでしょうが結構古い家屋がありました。
亀丸屋さんは2年くらい前までは確かに営業されていたようですが女将が80を超えられ、後継者もおられないようで、多分今は素泊まりだけになってるかも知れません。
一里塚は歩く旅人の目安として日本橋から京に至るまで一里ごとに道の両側に盛り土をしてたいていは榎を植えてあったようです。木陰が旅人の休憩所ともなったのだと思います。中山道は東海道と草津で合流するので、草津まで129里。今ではほとんどが一里塚跡という石碑があるのみで、それすらないところもあります。垂井のようにすがたをとどめていたとしても道の片側だけがほとんどじゃないかと思います。
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blue-robin2 at 2016-10-21 23:18
timata-snさん こんばんは
街道沿いはやはり古い家がたくさん残っています。
この旅篭はかなり老朽化が進んでいるようですが、2年くらい前までは食事も出していたようです。最近の記事を見ると女将も高齢になり客も減ってるようで、多分素泊まりくらいは受け入れてるんかもしれません。
歴史民俗資料館でその合戦の模様を見ることができました。
やはり小早川の寝返りが西軍の敗因なのでしょうね。
街道沿いはやはり古い家がたくさん残っています。
この旅篭はかなり老朽化が進んでいるようですが、2年くらい前までは食事も出していたようです。最近の記事を見ると女将も高齢になり客も減ってるようで、多分素泊まりくらいは受け入れてるんかもしれません。
歴史民俗資料館でその合戦の模様を見ることができました。
やはり小早川の寝返りが西軍の敗因なのでしょうね。
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blue-robin2 at 2016-10-21 23:19
wasitigirieさん。ありがとうございます。
地震は結構横揺れはありましたが、このあたりは震度4ですから大丈夫でした。久しぶりの揺れでびっくりしました。
地震は結構横揺れはありましたが、このあたりは震度4ですから大丈夫でした。久しぶりの揺れでびっくりしました。
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blue-robin2 at 2016-10-21 23:23
wasitigirieさん
ゴメンナサイ、いただいたコメント私の手違いで消えてしまいました。地震見舞いありがとうございます。
ゴメンナサイ、いただいたコメント私の手違いで消えてしまいました。地震見舞いありがとうございます。
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blue-robin2 at 2016-10-21 23:23
田舎の番人さん こんばんは
ただ目的地へ向かって歩くだけだともっと距離は稼げるのでしょうが、せっかくだから周辺の歴史的なものに触れながら歩いています。途中で、日本橋から来たという人に毎日3組ほどと出会いますが、ほとんどの方は3年くらいかけてられるようです。まだまだ先は長いですが、自分流で楽しみながら歩くつもりです
ただ目的地へ向かって歩くだけだともっと距離は稼げるのでしょうが、せっかくだから周辺の歴史的なものに触れながら歩いています。途中で、日本橋から来たという人に毎日3組ほどと出会いますが、ほとんどの方は3年くらいかけてられるようです。まだまだ先は長いですが、自分流で楽しみながら歩くつもりです
昨日の地震、びっくりしましたねぇ。
震度6弱は安芸灘地震と同程度なので・・
余震も続くそうなのでお気をつけ下さいね。
ねこの家族・・なんとも気持ちよさそうですね。
カップルで子ねこを見守るというのは見たことも聞いたこともないのですが、母ねこが威嚇もせずゆったりしているということは、ひょっとしたら・・??!!・・かもですね~
震度6弱は安芸灘地震と同程度なので・・
余震も続くそうなのでお気をつけ下さいね。
ねこの家族・・なんとも気持ちよさそうですね。
カップルで子ねこを見守るというのは見たことも聞いたこともないのですが、母ねこが威嚇もせずゆったりしているということは、ひょっとしたら・・??!!・・かもですね~
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blue-robin2 at 2016-10-24 00:31
白いねこさん こんばんは
今回の地震は県北で強かったようです。
当地は震度4。それでも久しぶりの揺れに不安がつのりました。
橋の上から覗き込んだ長閑な風景です。私の想像は楽しいけれど・・・
実はとんでもない。上にいるのは、もうそろそろ子離れしてもいいんじゃないと誘いにきたオスという方が自然なのかも・・・・。
今回の地震は県北で強かったようです。
当地は震度4。それでも久しぶりの揺れに不安がつのりました。
橋の上から覗き込んだ長閑な風景です。私の想像は楽しいけれど・・・
実はとんでもない。上にいるのは、もうそろそろ子離れしてもいいんじゃないと誘いにきたオスという方が自然なのかも・・・・。