2014年 10月 30日
10月:読書 |
●悪童日記
●ふたりの証拠
●第三の嘘 アゴタ・クリストフ著
アゴタ・クリストフ(1935~2011)は1956年ハンガリー動乱の折に西側に亡命したハンガリー人で1986年に出た悪童日記は彼女のデビュー作。
三部作になっている。それぞれ単独に読んだとしても十分に期待にこたえられる内容ではあるが、三冊読んではじめて真実と嘘の全体像が読者に見えてくるといった構成がなかなか面白く、一気に三冊読んでしまった。舞台は第二次大戦末期から戦後にかけてのハンガリーのオーストリア国境近くの町。
「悪童日記」は第二次大戦末期、疎開先の田舎での過酷な日々を送る少年期をつづる日記。
戦争が激しさを増す中、双子の「ぼくたち」は魔女とも呼ばれるおばあちゃんの住む国境近くの小さな町に疎開した。その日から過酷な日々が始まるが、ふたりは非情で不条理な世界の中で、生きるための労働をおぼえ、精神と肉体を鍛えるためにあらゆる練習を編み出し実行、倫理を越えてしたたかに生き抜いて行く。ふたりが記した独自のルール(真実のみを記す)にしたがった日記という形で話は展開し、ついに双子の一人が国境を超えるという場面で物語は終わる。此処に至って最後の試練、つまりいつも一緒だった双子それぞれが個として生きるという試練に立ち向かう。
「ふたりの証拠」は、戦後、新体制が支配する国での双子の一人、疎開先にとどまったリュカを主人公に彼が青年期をいかに生きたかを描いた小説。読み進むうち、悪童日記の「ぼくたち」は実は「ぼく」ではなかったのだろうかという疑念がわいてくる。終章では突如、リュカを探すクラウス(双子のもう一人の名前)と名乗る男が登場する。リュカはすでに20年前にクラウスに当てた数冊のノートを残して姿を消したことになっている。次の第三部への序章がここに・・・
「第三の嘘」はベルリンの壁崩壊後、生まれた町での双子の再会が軸になっている。Ⅰ私、リュカの晩年と追憶。 Ⅱ私、クラウスの少年期から晩年。がそれぞれ私という一人称でつづられる。戦争が暗い影を落とす時代とはいえ、家族離散の発端がなんであったのか・・・クラウスの回想から明らかになって行く。
滞在ビザが切れ、クラウスと名乗る男は投獄されている。送還される前に、何十年も前にわかれたこの町にいるであろう兄弟を探し求める。ここで、やはり双子は存在したのだということが見えてくる。離れた地でそれぞれの過酷な人生を歩んだ二人がついに再会。この連作の不可解であった真実と嘘が明かされていくのだが、ふたりを隔てる壁はついに崩れることなく、真実を分かち合うことなく、兄弟であることを認め合うことなく、失意の中でクラウスと名乗るリュカは列車に身を投げる。
彼の遺骸は希望によってその父親の墓に葬られる。そして、クラウスのつぶやき「列車、いい考えだな」でこの衝撃的な物語は終わっている。
全体を通し、過酷な時代をしたたかに生き抜いた二人の智恵と愛と断絶、絶望の人生を感動的に描きだしている。
悪童日記が映画化されていると聞いた。[悪童日記]を単独とした映画なのだろうか、それとも、真実と嘘が複雑に絡み合った全体の映画化なのだろうか。当地での上映をぜひ見に行きたいと思っている。
●街道をゆく14 南伊予西土佐の道 司馬遼太郎著
この紀行文を読むことで初めて知ったことは、宇和島藩が、秀吉の人質として育ち、江戸期に入って廃嫡となった伊達政宗の長子、秀宗の就封地であったということであった。当時、民力の疲弊したこの地の行政をいかに行うかについて政宗の大きな後押しがあったこと。彼の選んだ家来の一人でおおいに農民の心をつかんだ宇和島藩惣奉行の山家清兵衛や農民側の立場に立ち、一揆を鎮圧した吉田藩家老・安藤儀太夫継明のことにふれ、彼らを偲んでいる。作家は、二千人以上とも推測される奥州からの移住者のその後にも目を向け、名の知れた家老たちの子孫を探すという試みもされている。
●街道をゆく21 神戸横浜散歩 芸備の道 司馬遼太郎著
芸備の道:毛利氏発祥の地である安芸吉田をたずねる。本書では元就の出現に加え対信長という点で毛利と安芸門徒の利害が一致していたといったことにも詳しく触れている。
また、奇兵隊を組織した高杉など、幕末長州藩の結束が強かった理由として、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家家臣であったという共通意識があった故と解説する。また、幕末に登場する名だたる長州勢の姓、(例えば桂など)がこの吉田周辺の地名として残っていることをあげていておもしろい。
神戸横浜散歩: 現在の大都市の中でも、江戸期の城下町の伝統がない点、幕末から明治にかけての開港によって発展したという点が共通した二つの町だが、ホテルに滞在した時の雰囲気の比較として、神戸は優れたカラーリストの絵を見るようとし、それに対して横浜は哲学めいていると表現している。わかりよい比較だと思った。
開港当時から神戸では居留地文化が一種のあこがれとして存在し続けたが、横浜は首都である東京に近いが故に当初から日本の命運とじかにかかわらざるを得なかった。大戦でともに焦土と化したことに変わりはないが、横浜では戦後ほとんどが米軍に接収されるという状態が続いたのだ。
●ふたりの証拠
●第三の嘘 アゴタ・クリストフ著
アゴタ・クリストフ(1935~2011)は1956年ハンガリー動乱の折に西側に亡命したハンガリー人で1986年に出た悪童日記は彼女のデビュー作。
三部作になっている。それぞれ単独に読んだとしても十分に期待にこたえられる内容ではあるが、三冊読んではじめて真実と嘘の全体像が読者に見えてくるといった構成がなかなか面白く、一気に三冊読んでしまった。舞台は第二次大戦末期から戦後にかけてのハンガリーのオーストリア国境近くの町。
「悪童日記」は第二次大戦末期、疎開先の田舎での過酷な日々を送る少年期をつづる日記。
戦争が激しさを増す中、双子の「ぼくたち」は魔女とも呼ばれるおばあちゃんの住む国境近くの小さな町に疎開した。その日から過酷な日々が始まるが、ふたりは非情で不条理な世界の中で、生きるための労働をおぼえ、精神と肉体を鍛えるためにあらゆる練習を編み出し実行、倫理を越えてしたたかに生き抜いて行く。ふたりが記した独自のルール(真実のみを記す)にしたがった日記という形で話は展開し、ついに双子の一人が国境を超えるという場面で物語は終わる。此処に至って最後の試練、つまりいつも一緒だった双子それぞれが個として生きるという試練に立ち向かう。
「ふたりの証拠」は、戦後、新体制が支配する国での双子の一人、疎開先にとどまったリュカを主人公に彼が青年期をいかに生きたかを描いた小説。読み進むうち、悪童日記の「ぼくたち」は実は「ぼく」ではなかったのだろうかという疑念がわいてくる。終章では突如、リュカを探すクラウス(双子のもう一人の名前)と名乗る男が登場する。リュカはすでに20年前にクラウスに当てた数冊のノートを残して姿を消したことになっている。次の第三部への序章がここに・・・
「第三の嘘」はベルリンの壁崩壊後、生まれた町での双子の再会が軸になっている。Ⅰ私、リュカの晩年と追憶。 Ⅱ私、クラウスの少年期から晩年。がそれぞれ私という一人称でつづられる。戦争が暗い影を落とす時代とはいえ、家族離散の発端がなんであったのか・・・クラウスの回想から明らかになって行く。
滞在ビザが切れ、クラウスと名乗る男は投獄されている。送還される前に、何十年も前にわかれたこの町にいるであろう兄弟を探し求める。ここで、やはり双子は存在したのだということが見えてくる。離れた地でそれぞれの過酷な人生を歩んだ二人がついに再会。この連作の不可解であった真実と嘘が明かされていくのだが、ふたりを隔てる壁はついに崩れることなく、真実を分かち合うことなく、兄弟であることを認め合うことなく、失意の中でクラウスと名乗るリュカは列車に身を投げる。
彼の遺骸は希望によってその父親の墓に葬られる。そして、クラウスのつぶやき「列車、いい考えだな」でこの衝撃的な物語は終わっている。
全体を通し、過酷な時代をしたたかに生き抜いた二人の智恵と愛と断絶、絶望の人生を感動的に描きだしている。
悪童日記が映画化されていると聞いた。[悪童日記]を単独とした映画なのだろうか、それとも、真実と嘘が複雑に絡み合った全体の映画化なのだろうか。当地での上映をぜひ見に行きたいと思っている。
●街道をゆく14 南伊予西土佐の道 司馬遼太郎著
この紀行文を読むことで初めて知ったことは、宇和島藩が、秀吉の人質として育ち、江戸期に入って廃嫡となった伊達政宗の長子、秀宗の就封地であったということであった。当時、民力の疲弊したこの地の行政をいかに行うかについて政宗の大きな後押しがあったこと。彼の選んだ家来の一人でおおいに農民の心をつかんだ宇和島藩惣奉行の山家清兵衛や農民側の立場に立ち、一揆を鎮圧した吉田藩家老・安藤儀太夫継明のことにふれ、彼らを偲んでいる。作家は、二千人以上とも推測される奥州からの移住者のその後にも目を向け、名の知れた家老たちの子孫を探すという試みもされている。
●街道をゆく21 神戸横浜散歩 芸備の道 司馬遼太郎著
芸備の道:毛利氏発祥の地である安芸吉田をたずねる。本書では元就の出現に加え対信長という点で毛利と安芸門徒の利害が一致していたといったことにも詳しく触れている。
また、奇兵隊を組織した高杉など、幕末長州藩の結束が強かった理由として、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家家臣であったという共通意識があった故と解説する。また、幕末に登場する名だたる長州勢の姓、(例えば桂など)がこの吉田周辺の地名として残っていることをあげていておもしろい。
神戸横浜散歩: 現在の大都市の中でも、江戸期の城下町の伝統がない点、幕末から明治にかけての開港によって発展したという点が共通した二つの町だが、ホテルに滞在した時の雰囲気の比較として、神戸は優れたカラーリストの絵を見るようとし、それに対して横浜は哲学めいていると表現している。わかりよい比較だと思った。
開港当時から神戸では居留地文化が一種のあこがれとして存在し続けたが、横浜は首都である東京に近いが故に当初から日本の命運とじかにかかわらざるを得なかった。大戦でともに焦土と化したことに変わりはないが、横浜では戦後ほとんどが米軍に接収されるという状態が続いたのだ。
by blue-robin2
| 2014-10-30 16:30
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