2017年 07月 10日
中山道7回目 NO.2 |
加納の立場から御嵩へと美濃路を行く旅2日目、
★7月3日 ~午前中~ 坂祝駅~太田宿
宿泊した高山線美濃太田から一駅戻って坂祝から出発することにした。
坂祝と書いて「さかほぎ」と読むらしいがちょうど鵜沼宿と太田宿の中間にあたる。 鵜沼宿と太田宿にかけても大半は国道21号がしめる。この区間は木曽川下りのハイライトである奇石が続くという木曽川堤防上の遊歩道(日本ラインロマンティック街道)を歩く方がずっと快適ということで、その堤防をめがけ駅前からまっすぐ南へあるき、堤防上へ(9:00 AM)
ちなみに、このあたりの地名を「取組」という。
この地名は対岸にある桃太郎神社に由来するという。桃太郎が鬼と取り組み見事退治、宝物を積んで帰って来たところがこの近くにある宝積禅師寺だという伝説がある。
ロマンティック街道
右に目をやると昨日の最終地点うとう峠からの道、左方向が(上流)目指す太田宿への道。 奇石を見ながら・・・ 「行幸巌」の碑
対岸に迫る鳩吹山の景色がライン下り第一の佳景といわれる。 ロマンティック街道は取組一里塚手前で終わるがなお川沿いの道を歩き続ける。
途中、一色大橋を右に見て、(9:30)炎天下をさらに進む。美濃を代表する俳人、兼松嘯風の句碑があったり、廃舟の展示があったりする中をひたすら歩く。石を積み上げたようなモニュメントがおもしろい。 やがて、前方に「大井戸の渡し」があったという国道41号線高架(太田宿西口)が見えてくる。 このあたりの木曽川 歩きだして1時間、ちょうど10時に虚空蔵堂(太田宿西口)につく。
このお堂はその父が代官所の役人でもあった文豪坪内逍遥が少年時代に遊び場としており、堂の背後に逍遥ゆかりのムクノキがそびえていた。また、解説版によるとこのあたりは承久の乱の古戦場でもあるらしい。
近くには尾張藩が木曽川の舟運を監視した川並番所跡もあった。
堤防から下り、国道41号の高架をくぐって左折、いよいよ、大田宿へむかう。
★大田宿
大田宿は木曽川の流れとともにあり、大田の渡しと舟運をひかえ、大いににぎわい、地方の行政、文化の中心として発展したという。1843年当時の宿内家数108軒、人口505人本陣1、脇本陣2、旅篭20軒。また、飛騨街道、郡上街道の分岐点にあたり、現在も飛騨方面への高山本線、郡上方面への長良川鉄道が発着する交通の要衝。
いよいよ、宿の始まる十字路角には郡上街道追分道標 街道左角に高札場跡 左手にある酒屋、赤いポストが懐かしい。 そして、本陣跡(庄屋を兼ねた福田家。門だけが残っている) 右手の大田宿中山道会館には歴史や文化資料が展示されているらしいがあいにく月曜日ということで定休日の様だった。ここで休憩と決めていたが残念。堤防歩きですっかり咽が渇いていたので
見つけてあった堤防下の喫茶店へと少し戻る。(20分ほど休憩)
10時45分、街道歩き再開。
林脇本陣跡・・・大田村庄屋、尾張藩勘定書を兼ねていた。主屋は1769年(明和6年)の建築で中山道随一の脇本陣遺構といわれ、国の重要文化財。今も林家の住居として使われている。
歴史的出来事としては板垣退助が投宿した翌日に岐阜で暗殺されたこと。槍が岳を開いた播隆上人終焉の宿であることなど。 林脇本陣跡の向かいには、御代桜酒造、辰巳屋、永楽屋といった酒屋、商家が続く。
降りかえると・・・・ 一軒、開いていた休みどころに入る。旧旅篭小松屋(江戸時代末期の町屋建築) 祐泉寺(門は木曽川土手側にある)
「火伏観音」が祀られている。境内には芭蕉句碑、坪内逍遥や北原白秋の歌碑、
日本ラインを命名した地理学者、志賀重昂の墓碑がたっている。 街道に戻ると道は僅かに曲がり枡形の痕跡をかんじる。
この先に新町木戸門跡がある。(大田宿の東口) 昼食を調達し、太田大橋へ向かうべく木曽川沿いの道へ戻る。
炎天下の街道歩きはきつい!岡本一平終焉の地碑、古井の一里塚跡(日本橋より98里目)などを見て青く塗られた太田大橋を目指す。
昭和2年太田橋の架橋により役目を終えたという太田の渡し場跡には石畳も残り、化石林公園となっている。 太田橋;歩道専用橋も設けられ安心して渡れる。(12:03) 今渡の渡し場跡 ~午後~
ここから伏見宿まで道は続くが、計画どおり、名鉄広見線日本ライン今渡駅へ向かう。
日本ライン今渡駅⇒新可児駅⇒明智駅 (約10分)駅から歩いて伏見宿へ向かう。
★伏見宿
すぐ北側に木曽川の流れをひかえ河畔の新村湊が中山道の貨物湊としてにぎわったという。
記録によると1843年当時、家数、82軒。本陣1、脇本陣1、旅篭29、人口485
駅から、北へ住宅地の中を歩くこと10分。突き当たった宿場を貫く道が交通量の多い国道21号線。宿に入ってすぐの公民館の前に本陣跡の碑が建っている。疲れもピーク!宿場の雰囲気を残すものはほとんどないと聞いていたので本陣碑を確認するにとどめ、早々に駅に戻った。
明智駅⇒御嵩駅 (6分)
★御嵩宿
天台宗の古刹、願興寺(蟹薬師)の門前町として古くから発展。東に、細久手、大湫への難所をひかえ大いににぎわった。関ヶ原で勝利した家康は直ちに宿駅伝馬制へと着手、中山道筋でもいち早くこの宿に宿駅掟朱印状を下したことから重要拠点と見なしていたことがうかがえる。1843年の記録では家数66軒、本陣1、脇本陣1、旅篭28、人口600人とある。尾張藩領であった。
今回は、蒸し暑さも頂点という感じだから、宿の中心部を見て、駅近くの休みどころ「わいわい館」でゆっくり休憩し帰路に就くことにした。
御嵩駅 駅からの宿場風景 左角の白壁の一角が願興寺 隣に資料を展示する中山道御嵩館(脇本陣跡)があったが、月曜休館で入れず・・・その隣に本陣跡があるはずだが・・・・現在は駐車場になっている。 商家「竹屋」
本陣、野呂家の分家で、明治10年の建築とされる建物は切妻二階建て。 斜め向かいの旧旅篭、柏屋 高札場跡を見て戻ろうと数軒先まで進み、地元の方、数人に聞いたが無関心なのかよくわからないという。町並みも進むにつれ街道の面影が薄れている。駅に戻ろう・・・
駅方向を見る。 予定より早く切り上げ、御嵩駅発の列車で帰路につく。(15:00PM)
午後7時過ぎには帰宅できるはず・・・
この日の歩数 20739
★7月3日 ~午前中~ 坂祝駅~太田宿
宿泊した高山線美濃太田から一駅戻って坂祝から出発することにした。
坂祝と書いて「さかほぎ」と読むらしいがちょうど鵜沼宿と太田宿の中間にあたる。
ちなみに、このあたりの地名を「取組」という。
この地名は対岸にある桃太郎神社に由来するという。桃太郎が鬼と取り組み見事退治、宝物を積んで帰って来たところがこの近くにある宝積禅師寺だという伝説がある。
ロマンティック街道
右に目をやると昨日の最終地点うとう峠からの道、左方向が(上流)目指す太田宿への道。
対岸に迫る鳩吹山の景色がライン下り第一の佳景といわれる。
途中、一色大橋を右に見て、(9:30)炎天下をさらに進む。美濃を代表する俳人、兼松嘯風の句碑があったり、廃舟の展示があったりする中をひたすら歩く。石を積み上げたようなモニュメントがおもしろい。
このお堂はその父が代官所の役人でもあった文豪坪内逍遥が少年時代に遊び場としており、堂の背後に逍遥ゆかりのムクノキがそびえていた。また、解説版によるとこのあたりは承久の乱の古戦場でもあるらしい。
堤防から下り、国道41号の高架をくぐって左折、いよいよ、大田宿へむかう。
★大田宿
大田宿は木曽川の流れとともにあり、大田の渡しと舟運をひかえ、大いににぎわい、地方の行政、文化の中心として発展したという。1843年当時の宿内家数108軒、人口505人本陣1、脇本陣2、旅篭20軒。また、飛騨街道、郡上街道の分岐点にあたり、現在も飛騨方面への高山本線、郡上方面への長良川鉄道が発着する交通の要衝。
いよいよ、宿の始まる十字路角には郡上街道追分道標
見つけてあった堤防下の喫茶店へと少し戻る。(20分ほど休憩)
10時45分、街道歩き再開。
林脇本陣跡・・・大田村庄屋、尾張藩勘定書を兼ねていた。主屋は1769年(明和6年)の建築で中山道随一の脇本陣遺構といわれ、国の重要文化財。今も林家の住居として使われている。
歴史的出来事としては板垣退助が投宿した翌日に岐阜で暗殺されたこと。槍が岳を開いた播隆上人終焉の宿であることなど。
降りかえると・・・・
「火伏観音」が祀られている。境内には芭蕉句碑、坪内逍遥や北原白秋の歌碑、
日本ラインを命名した地理学者、志賀重昂の墓碑がたっている。
この先に新町木戸門跡がある。(大田宿の東口)
炎天下の街道歩きはきつい!岡本一平終焉の地碑、古井の一里塚跡(日本橋より98里目)などを見て青く塗られた太田大橋を目指す。
昭和2年太田橋の架橋により役目を終えたという太田の渡し場跡には石畳も残り、化石林公園となっている。
ここから伏見宿まで道は続くが、計画どおり、名鉄広見線日本ライン今渡駅へ向かう。
日本ライン今渡駅⇒新可児駅⇒明智駅 (約10分)駅から歩いて伏見宿へ向かう。
★伏見宿
すぐ北側に木曽川の流れをひかえ河畔の新村湊が中山道の貨物湊としてにぎわったという。
記録によると1843年当時、家数、82軒。本陣1、脇本陣1、旅篭29、人口485
駅から、北へ住宅地の中を歩くこと10分。突き当たった宿場を貫く道が交通量の多い国道21号線。宿に入ってすぐの公民館の前に本陣跡の碑が建っている。疲れもピーク!宿場の雰囲気を残すものはほとんどないと聞いていたので本陣碑を確認するにとどめ、早々に駅に戻った。
明智駅⇒御嵩駅 (6分)
★御嵩宿
天台宗の古刹、願興寺(蟹薬師)の門前町として古くから発展。東に、細久手、大湫への難所をひかえ大いににぎわった。関ヶ原で勝利した家康は直ちに宿駅伝馬制へと着手、中山道筋でもいち早くこの宿に宿駅掟朱印状を下したことから重要拠点と見なしていたことがうかがえる。1843年の記録では家数66軒、本陣1、脇本陣1、旅篭28、人口600人とある。尾張藩領であった。
今回は、蒸し暑さも頂点という感じだから、宿の中心部を見て、駅近くの休みどころ「わいわい館」でゆっくり休憩し帰路に就くことにした。
御嵩駅
本陣、野呂家の分家で、明治10年の建築とされる建物は切妻二階建て。
駅方向を見る。
午後7時過ぎには帰宅できるはず・・・
この日の歩数 20739
by blue-robin2
| 2017-07-10 16:24
| 中山道
|
Comments(8)
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timata-sn at 2017-07-10 20:01
blue-robin2さん こんばんは
今朝は雨が降って居て早くに上がり、陽射しも出て居ましたよ。
電車を使うな出されて、目的の工程をたどられたのですね。
生憎の月曜日と言う事で、休館と言う所も有ったのですね。
残念でしたね。
色々と調べて行かれて居る様で、地元の方に効かれても関心がなく
解らない事も有るんですね。
読ませて戴き、良く調べて計画されているなぁって感心しながら
見させて戴きました。
今朝は雨が降って居て早くに上がり、陽射しも出て居ましたよ。
電車を使うな出されて、目的の工程をたどられたのですね。
生憎の月曜日と言う事で、休館と言う所も有ったのですね。
残念でしたね。
色々と調べて行かれて居る様で、地元の方に効かれても関心がなく
解らない事も有るんですね。
読ませて戴き、良く調べて計画されているなぁって感心しながら
見させて戴きました。
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blue-robin2 at 2017-07-11 11:50
timata-snさん こんにちは
いつも丁寧に読んでくださりありがとうございます。
今回は久しぶりだったのと暑かったのとで
ちょっと大雑把な歩きになりましたが
写真を整理しながら、その時写した説明板など参考に
まとめました。
晴れましたね!なんと暑いんでしょう
このまま梅雨が明けるといいのですが~~~
いつも丁寧に読んでくださりありがとうございます。
今回は久しぶりだったのと暑かったのとで
ちょっと大雑把な歩きになりましたが
写真を整理しながら、その時写した説明板など参考に
まとめました。
晴れましたね!なんと暑いんでしょう
このまま梅雨が明けるといいのですが~~~
いつもご一緒させて歩かせていただいているような気がしながら読ませていただきました 史跡ってほんと興味が湧きますね! 拝見させていたきながらその時代の風景を思い浮かばせてみたり・・ありがとうございます!
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blue-robin2 at 2017-07-11 23:37
番人さん こんばんは
今回は一泊で4つの宿場を進みました。整理したつもりでも、備忘録と思うと結構画像枚数も増えましたが、一緒に歩いてくださりありがとうございます。宿の様子はほぼ似通ってますが、双六のコマを進めるように日本橋までと思ってますが・・・「あがり」はいつになるやら~~
今回は一泊で4つの宿場を進みました。整理したつもりでも、備忘録と思うと結構画像枚数も増えましたが、一緒に歩いてくださりありがとうございます。宿の様子はほぼ似通ってますが、双六のコマを進めるように日本橋までと思ってますが・・・「あがり」はいつになるやら~~
この蒸し暑い中美濃路を歩かれたんですね~
私も写真と説明を見ながらご一緒させていただきました。
「犬山焼」という藩のお庭焼の焼物が好きなので、あ~ここが犬山城とおもいながら見させていただきました。
お疲れはとれましたか、思い出しながら整理するのもまた楽しいものですね~♪
私も写真と説明を見ながらご一緒させていただきました。
「犬山焼」という藩のお庭焼の焼物が好きなので、あ~ここが犬山城とおもいながら見させていただきました。
お疲れはとれましたか、思い出しながら整理するのもまた楽しいものですね~♪
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blue-robin2 at 2017-07-14 15:30
白いねこさん こんにちは
もう10日も前になるんだと思います。梅雨の中、この2日間だけが晴というので出かけたわけですが、・・・・今日の犬山も、歩いた各務線沿いも豪雨となっているようですね。被害が出ないよう祈るばかりです。
犬山焼きも江戸期の藩の殖産興業策によって生まれた焼き物のようですね。焼き物には疎いのですがおもに赤絵なんでしょうか?
暑くて「前に進む」以外にあまり気が回らなかったのですが行く先々、もう少し幅広くいろいろ知っているとより楽しいでしょうね。
もう10日も前になるんだと思います。梅雨の中、この2日間だけが晴というので出かけたわけですが、・・・・今日の犬山も、歩いた各務線沿いも豪雨となっているようですね。被害が出ないよう祈るばかりです。
犬山焼きも江戸期の藩の殖産興業策によって生まれた焼き物のようですね。焼き物には疎いのですがおもに赤絵なんでしょうか?
暑くて「前に進む」以外にあまり気が回らなかったのですが行く先々、もう少し幅広くいろいろ知っているとより楽しいでしょうね。
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koba222 at 2017-07-17 19:13
またまた中美濃路歩きを実行されましたか。
素晴らしいことです。
計画と実行でしっかりと歩かれること
なかなかまねできません。
良い経験されてますね。
実行の後の充実感は満足感いっぱいだと思います。
このところの福岡朝倉と大分日田大水害に翻弄されましたが
味噌蔵元の知人が無事とわかりほっとしましたが
後片付けのまかないが大変らしく1日だけでもと
炊き出しのボランティアへ出かけていました。
何事もなく平凡であることのありがたさを痛感しました。
素晴らしいことです。
計画と実行でしっかりと歩かれること
なかなかまねできません。
良い経験されてますね。
実行の後の充実感は満足感いっぱいだと思います。
このところの福岡朝倉と大分日田大水害に翻弄されましたが
味噌蔵元の知人が無事とわかりほっとしましたが
後片付けのまかないが大変らしく1日だけでもと
炊き出しのボランティアへ出かけていました。
何事もなく平凡であることのありがたさを痛感しました。
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blue-robin2 at 2017-07-18 22:18
kobaさん こんばんは
今日はブログのシステムメンテナンスとかでログインできずお返事が遅れました。
この季節は半日も歩くともうぐったりという感じではあるんですが一応計画通り目的地まで行きました。
梅雨明け前は毎年の様に大荒れで・・・、やはり温暖化の影響なんでしょうか。いずれにせよ被害がこれ以上広がらないよう願うばかりです。ボランティアに入られたのですね。頭が下がります。
今日はブログのシステムメンテナンスとかでログインできずお返事が遅れました。
この季節は半日も歩くともうぐったりという感じではあるんですが一応計画通り目的地まで行きました。
梅雨明け前は毎年の様に大荒れで・・・、やはり温暖化の影響なんでしょうか。いずれにせよ被害がこれ以上広がらないよう願うばかりです。ボランティアに入られたのですね。頭が下がります。